加山雄三の借金人生 100億円以上を完済

偉人・芸能人

加山雄三とは

・20隻以上のヨットを設計した設計士、一等航海士、ギタリスト、旭日章俳優などの顔を持つ。

加山雄三は名俳優の父と共に、多彩な活動をする大物俳優として知られています。

だがもう一つの顔は借金王で、恵まれすぎた子供時代のせいか、金銭感覚が大きすぎました。

借金100億円の完済?!

俳優の加山雄三はアメリカの永住権(グリーンカード)を取得し、妻と子供がアメリカに住んでいる。

本人は東京成城の一等地に豪邸を持っているが、誰も居ない家に帰る事は少なく、仕事に忙しい。

忙しいのは俳優人生の大半を借金を返すのに費やしてきたからで、100億円以上の借金を抱えていた。

その加山雄三が2015年になって「借金完済」宣言をして世間を驚かせました。

加山雄三の人柄はともかく商売上の評判は、ちょっとした仕事でも高額ギャラを要求するのであまり良くなかった。

たとえば学校行事のゲストに芸能人を呼ぶ事があるが、他の芸能人は数十万円なのに加山は2000万円を要求したという。

ゼニゲバという評判だったが、この頃は借金に追いまくられていたので、金の亡者のごとく稼がなければならなかった。

100億円の借金というと金利5%でも一日100万円以上の金利、10%なら毎日300万円近い金利で、確かに数十万円で営業しても追いつかない。

これを返済する為に、芸能界の仕事は最低でも数百万円以上の仕事に限っていたようです。

その借金は経営する『加山キャプテンコーストスキー場』(新潟県湯沢町)が作ったものだった。

そのスキー場は2011年5月に廃業が発表されたが、前のシーズンも休業していた。

経営が行き詰って休業したところに東北地震で打撃を受けて、そのまま廃業を決めたようです。

この時加山は「20年間で20億円以上をつぎ込み、ずっと赤字で1回も黒字なし。本当にバカだね。」と自分を評した。

借金の経緯

加山スキー場は1990年スキーブームの全盛期に開業し、当時は話題になり年間数万人の利用客がありました。

1987年に「私をスキーに連れてって」という映画が公開されて、数年間がブームの頂点とされていました。

つまり加山のスキー投資は最も高い時に買って、最も安い時に売る、典型的な「高値買いの投売り」だった事になる。

加山スキー場は予想ほど利用客が伸びず、資金難からコースが短縮されたのと、駅や高速道路から遠かったので集客に苦労しました。

何よりスキーブームが終わってしまい、周辺のスキー場もクシの歯が抜けるように廃業して行きました。

最近スキーはやや盛り返しているようですが、損切りした途端に相場が上がり始めるのは、どの世界でも同じようです。

加山はスポーツを中心に多趣味な人で、様々な事業を始めたが失敗例が多かった。

最初の事業は1965年、当時流行の先端だった茅ヶ崎で父親とホテルを開業したが、1970年に倒産しました。

倒産時も加山は海外で遊びまわっていて、暴力事件を起こしたり女優と結婚したりしていました。

ホテルを開業したのは父親の俳優上原謙で、71歳の時に再婚して子供を作っているので、父親に似たのかも知れない。

ホテル倒産で23億円の負債を背負い、毎日卵かけご飯だけで過ごし、1980年頃に約10年で返済しました。

加山雄三が生まれたのは1937年なので、ホテル開業は28歳で借金返済は43歳の頃だった事になります。

その後数年は俳優としても活躍し、人生で最も平穏な数年間を過ごすが、バブル景気が過熱するとまた悪い癖が出ました。

趣味のヨットなどでは飽き足らず、ブームになりつつあったスキー場を開業しようと思い立ちました。

加山が思い立つ新事業は焼肉屋などではなく、壮大で元手の掛かる事業なのが特徴です。

父は名俳優で家政婦が2人居た

『加山キャプテンコーストスキー場』の開業までには推定で数十億円掛かり、開業してからも20億円ほどつぎ込みました。

肝心の利益はまったく出ず、借地だったようなので土地を転売して利益を出す事もありませんでした。

人生2度目の大借金を払い終えたのは2014年頃らしく、この頃旅番組とか他の俳優と同じような仕事を始めています。

今後の予定はヨットで世界一周と話しているので、78歳だが体力的には元気なようです。

加山雄三は先ほど出た俳優上原謙の長男として生まれ、父は既に日本を代表する名俳優で、金銭的に不自由なく育ちました。

親類の岩倉具視は幕末に長州藩をそそのかしてクーデターを画策し、幕府を倒して明治政府が出来るまでは実質的な首相を務めた。

家にはお手伝いさんが常に2人以上居て、家は最初田園調布にあり、2歳から30歳まで神奈川県の茅ヶ崎で過ごしました。

学校は地元の名門学校から慶応高校、慶応大学へ進み「慶応ボーイ」という言葉まで出来た。

大学卒業後に東宝へ入社しすぐ三船敏郎の映画でデビュー、父の上原謙は松竹でデビューしたが、この頃は東宝映画に出演していた。

父はまだ現役俳優で映画界にも顔が広かったので、おそらくコネ入社だったのでしょう。

1961年から映画「若大将シリーズ」が大ヒットし、1960年代を代表する人気映画俳優になりました。

その後はホテル開業から借金に追われるようになり、借金返済のための芸能活動をせざるを得なくなって行きます。

70年代からは映画からテレビに活動を移し、時代劇から現代劇まで幅広い作品に出演し、演技力でも評価されています。

80年代にはさらに司会者としても活躍し、これも好評を得たが、1990年のスキー場開業で人生が暗転し始めます。

90年代にはバラエティー番組の出演が多かったが、2000年代には高齢もあってテレビ出演は減少した。

替わってディナーショーなどいわゆる地方営業的な事で、数をこなして借金返済に励んでいたと思われます。

若い頃はスポーツ方面で多趣味だったが、最近はゲームや料理、鉄道模型などがプロ級とされていて、パソコンも使いこなす。

最悪時に借金100億円を超えていたときも、東京の豪邸とアメリカの別荘、その他資産を手放そうとせず、こだわりが強い。


※苦労してるんだか、なんなんだか、よくわからない人ですよね。

「ゆうゆう散歩」とかやってた時あるけど、なんか偉そうでしたし。まぁ、そういうキャラクターと言えばその限りですが。

えんじ

参考資料 http://www.thutmosev.com/archives/50376468.html#more

コメント