空襲と疎開 疎開は有料で金持ち優先だった

01-経済(NEWS)

疎開できるのは親が疎開費用を払える子供だけだった

都市の民間人を狙った米軍の空襲

日本は戦時中に連合軍(アメリカ軍)から都市への無差別爆撃を受け、原爆を含めて41万人以上がなくなったとされている。

犠牲者数についての正確な統計は無く、それぞれの被害地域で数を数えて合計したのが41万人と考えられる。

戦後の調査は推定値として70万人から100万人という数字も出されている。

空襲で負傷した人はその数倍の数百万人いたので、戦後は負傷者や障害者がとても多かった。

分かっている犠牲者41万人のうち約10万人が東京大空襲、広島原爆14万人、長崎原爆7万人、他は大阪・兵庫・愛知が多かった。

連合軍の第一の目標は民間人が多く居住している都市で、第二目標が港湾や飛行場、軍需工場などだった。

最初から民間人だけを標的にして、なるべく多くの犠牲者を出すのを目的にしていました。

1942年(昭和17年)4月18日に空母ホーネットから離艦した16機のB25が、デモンストレーションのように各地を空襲した。

1944年(昭和19年)6月16日、中国から離陸した新型爆撃機B29によって福岡県八幡製鐵所に空襲が実施され、200名以上がなくなった。

B29は操縦性が悪く、目標に狙いを定める事ができないので、最初から特定の標的ではなく、都市全体を狙っていた。

1944年10月からは占領したマリアナ諸島から連日B29が空襲に飛来するようになり、1945年8月15日以降も空襲は行われた。

アメリカ軍は出撃する兵士に「ジャップを人間と思うな」と檄を飛ばし、米軍機のパイロットは意図的に民間人を狙いました。

米軍が撮影した機内動画には、逃げ惑う農民などを執拗に狙い続ける様子が写っており、たまに動画サイトに掲載されている。

疎開はじまる

ミッドウェー海戦を転機に日本海軍は太平洋の戦線で負け続け、1943年(昭和18年)4月18日には連合艦隊司令長官も撃墜され作戦指揮ができなくなります。

太平洋の拠点は次々に玉砕し、B29が日本本土まで往復可能なサイパンを占領されて万事休すとなった。

B29爆撃機は今の自衛隊の飛行艇程度の全長なのだが、当時はバケモノのように巨大だと考えられていた。

最高速度は零式戦闘機と同等で、上昇高度はずっと高く、頑丈な装甲に守られていて、多数の機関銃も装備されていました。

戦前の最高性能だったとされる四式戦闘機「疾風」でも、速度は十分なものの、機銃が命中しても撃墜は困難だったと言われています。

日本各地には高射砲が設置されていたが、これがまったく当たらない上にB29は高度が高くて届かないので、天気予報(当たらない)と呼んでいた。

B29の防止は不可能と判断した大本営は、連合軍が標的にしている都市住人を農村に避難させることにし、これが有名な「疎開」でした。

疎開は都市住人だけではなく工場や生産力を維持するために移転させるのを含み、どちらかと言えば軍部はそれが主目的だった。

B29の本土初空襲の2ヵ月後の1944年8月4日、初めての学童疎開が東京で実施され、以降40万人以上の児童が全国の都市から農村へ移動した。

学童疎開は国が空襲から避難させる目的で実施したのが、受け入れ施設もないため、具体的には親戚の家に子供を預けた。

農家は余計な子供を預かると負担になるので、親戚の子供だけを受け入れ、性格や健康に問題のある子供は疎開できませんでした。

子供を疎開させるには受け入れ先の農家に対して毎月10円を支払い、食器や衣服など身の回りの物は持参する必要がありました。

農家以外の寺院でも疎開児童を受け入れたが、やはり毎月の費用が掛かるのは同じだった。

受け入れ先がない疎開児童は大きな寺などで集団生活をした

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疎開の現実

昭和16年ごろの労働者の収入は月収100円と言われる事が多いので、子供1人を疎開させるには収入の1割を出さねばなりませんでした。

ところが当時は富国強兵を奨励し子供の数が1世帯平均4人も居たので、全員疎開させると収入の4割も必要でした。

当然お金を払えなくて疎開できない人も居て、そうした子供たちが東京大空襲で大勢なくなりました。

めでたく疎開できた子供も農村では疎開者は厄介者で、農村の子供より食料が少なかったり、慣れない農家の作業を手伝っていました。

疎開した子供は都会の親元に手紙を書く事になっていますが、心配を掛けないように「元気でやっています」と書くよう学校で指導していた。

裕福な家庭の子供は自主的に農村へ移住し、農作業もなく食料も十分で、むしろ都会より良い生活だった。

さてお金がある子供たちは農村に避難したが、親たちはどうしたのでしょうか。

疎開できたのは子供だけで、大人の疎開は無かったが、裕福な人達はまたしても、自主的に農村に避難していました。

都会に残った大人たちは軍需生産や様々な労働に借り出され、連合軍の本土上陸に備えて本土決戦の準備をしていました。

最も空襲が集中したのは東京で、広島長崎は1回の被害が大きかったが空襲の頻度はそれほどでもなかった。

後は大阪、名古屋、神戸、九州の工業地帯が1万人前後の被害者を出し、その他の都市は散発的な空襲だった。

同じく空襲と言っても東京と田舎の地方都市では緊張感がまったく違い、大半の地域ではあまり大きな被害はなかった。

空襲の少ない地方都市では戦時生産などが忙しかったものの、徴兵で農村の労働力が足りないほうが大問題だった。

自然戦時中は食物が高騰し、規制されているにも関わらず、闇取引で儲ける農家が多く居ました。

食料は配給制だったが「闇米」などを買わなくては十分ではなく、ここでも親の仕送りがある子供と無い子供には格差があった。

だが都会に残った親たちは空襲によってなくなり、親が生きていた子供はそれでもマシな方なのだった。

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